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  • れな

「お金は巡ってくるものよね」は正しくない!

スピリチュアリストには、「必要なお金は巡ってくるものよね」とよく言う人がいます。

人を諭すスピリチュアルブロガーには、「必要なお金はちゃんと巡ってきますから、心配しないで楽しく暮らしてください」と耳心地の良いことを言う人がいます。

しかしこうした言葉は、霊的真理として正しくはありません。



お金は神や天使が回しているのではない。一人ひとりの行動で回っている。

お金というものは、天使や創造主が配慮して回しているものではなく、単純に、あなた方一人ひとりの仕事や行動によって、動いているものです。



臨時収入は神の起こした神秘であったりはしない。

たしかに、「今月はお金がピンチだわ!」と思っているときに予期せぬ臨時収入が入るようなことはあります。そんなときに「必要なお金は巡ってくるものよね」とつぶやいてしまうわけなのですが、その臨時収入はたまたま起こったものにすぎません。天使や創造主が手配したものではないのです。スピリチュアルな奇跡ではないのです。



一文無しになってしまう人も大勢いる。

その証拠に、お金が一文無しになってしまい、飢え死にしたり生活保護にすがったりする人は世の中に大勢います。彼らは信心深くないからお金が巡ってこなかったのでしょうか?そういうわけではありません。



あなたが生活できるのは、神ではなく旦那さんのおかげ。

あなたが主婦であるとして、あなたに生活できるお金があるのは、天使や創造主のお陰ではないのです。あなたの旦那さんのお陰です。あなたの旦那さんが汗水流して仕事をしなかったなら、あなたのもとにその生活費は入ってきてはいないのです。



神が旦那さんを生み出したわけでもない。旦那さん自身が険しい人生を生きている。

また、天使や創造主がその旦那さんを生み出したわけでもありません。旦那さんは自分の意思で険しい人生を生き抜き、今毎月、あなたがた家族の生活を守るために働き、きちんとお金を家庭に納めてくれているのです。



感謝すべき相手は神でも天使でもなく、旦那さん。またはお父さん。

このことを間違えてはいけません。そして、日々の糧を感謝すべき相手は神でも天使でもなく、あなたの旦那さんです。

あなたが実家に暮らす少女なのであれば、感謝すべき相手はあなたのお父さんやお母さんです。



旦那さんが病気になったなら、天使に祈るだけではお金は入ってこない。

つまり、もし旦那さんが病気で倒れたりしてしまったなら、天使に祈っているだけではお金は入ってこないのです。

いえ、現代先進国の場合は、保険制度によってあなたを守ってくれるお金がいくらかはあるでしょう。しかしこれは、制度の中で決められた額が支払われるだけです。その額は、あなたの生活には足りないこともあるかもしれないのです。

スピリチュアルな本では、「天使にお願いしていたら役所が何か手続きを間違えて、本来の額よりも多い金額が私に振り込まれる奇跡が起きました!」などというエピソードが綴られていたりますが、これらは天使の力ではなく、天使に願ったゆえでもなく、神秘が起きたわけでもなく、単なる「偶然」なのです。ほとんどの人にとって、このようなラッキーは起きません。天使や神に祈ったところで、このようなラッキーは起きません。



お金が足りないときは、祈るのではなくあなたが働いて稼ぐ必要がある。

つまり、予定されている収入が入ってこないときやお金が足りないときには、天使に祈るのではなく、具体的な金策の努力をしなければなりません。あなたは、働くべきなのです。



「たかり」は誠実な行為とは言えません。

もちろん、親戚や知人に「お金に困っているの」と相談すれば、工面してくれる人もいるかもしれませんが、それは「たかり」というものであって、誠実な行為とはいえません。あなたはあなたの生活費を、自分で働いて稼ぐのが道理というものです。



アバンダンティアのヒーリングを受けても、奇跡の力で臨時収入が入ってきたりはしない。

お金というものは基本的に、働かなければ入ってはこないのです。

金運アップのパワーストーンを身に付けても、アバンダンティアのヒーリングを受けても、奇跡の力で臨時収入が入ってきたりはしないのです。



奉仕者の多い文明において、賃金労働を手放して霊的探究に勤しんでも、飢えを防ぐことはできた。

「心配せずともお金は巡ってくる」といった言葉は、たしかに元々、古代の善なるスピリチュアリストや霊的存在が放った言葉ではあります。

しかし、ここには御幣があるのです。


霊的求道者の多い時代・土地では、守護存在の声を聴いて、その言葉のとおりに行動したり人助けをしたりする人々が一定数いました。

そのような中で、お金や俗社会への執着を捨てて第7次元の精神に達するステップに入った求道者に対して、多くの守護天使や霊的な師匠は、「恐れを捨てて進みなさい。心配せずとも食は得られる。」といった言葉を言い放ったのです。

そして、死への恐れを乗り越えて旅立った人に対して、守護存在の声を聴く者が寝食を差し出す、という構図が、これまで地球では幾度となく行われてきました。映画や小説にもこのような描写がよくありますね。

たとえばイエス・キリストは、お金を稼がずとも彼の支持者に寝食を恵んでもらえました。

たとえばゴータマ仏陀は、僧院が彼の暮らしを助けました。



「守護存在の声に忠実でありながら、かつ奉仕的に生きる人間」は、今の日本にはほとんどいない。

この、「予想外の場所から食事やお金が提供される」という奇跡のような出来事は、守護存在の声に忠実でありながら、かつ奉仕的に生きる人間がいることで初めて、成り立つのです。

しかし、現代の日本には、「守護存在の声に忠実でありながら、かつ奉仕的に生きる人間」というのはほとんどいません。


さらには、努力もせずに神頼み(天使頼み)をするだけの人間のもとに、そのような奉仕的な人を派遣するようなことも、起こりはしないのです。



天使は人を助けることがあるが、願掛けするだけで願望を叶えてくれるわけではない。奉仕に命を削る人のみ。

「天使が人を助けることがある」ということ自体は間違いではないのですが、近年の日本で流行っているような、「天使にお願いすれば何でも叶えてくれる」という概念のものとは違うのです。天使が人(のお金や食事)を助けることがあるのは、奉仕や自己成長に命を賭すような人に対してだけ、です。

そしてそれも、必ず起こるわけでもありません。奉仕や自己成長に命を賭す人のそばに、守護存在の声を聴いて奉仕する人がいないのであれば、天使たちは彼を助けることはできないのです。



「お金を稼がなくても良い」の真意は、「人間には自給自足や物々交換で生きるという方法もある」という意味。

また、「お金を稼がなくても良いのです」「働かなくても良いのです」といった言葉も、古代の善なるスピリチュアリストや霊的存在が放った言葉ではあります。

しかし、ここにも御幣があるのです。

彼らのいう「お金を稼がなくても良い」「働かなくても良い」という言葉は、「人間には自給自足や物々交換で生きるという方法もある」という意味にすぎないのです。

お金を稼ぐ労働をしなくてもかまわないのですが、しかしその代わりに、畑を耕したり、趣味半分で作ることの出来る洋服を誰かに食料と物々交換してもらったりする必要は、あるのです。

または、東南アジアの仏教の僧院に入ったり、キリスト教の修道院に入ったりすることでもかまいませんが。



お金を稼がない生き方を選ぶなら、ぜいたくはできない。

もう1つ重要なポイントとして、お金を稼がない生き方を選ぶなら、ぜいたくは出来なくなるわけです。お金を払わないと得られないデパートのスイーツや高級ブランド品は手に入りませんし、飛行機に乗って旅行に行くこともできません。

「お金を稼がない生活」「働かない生活」というものを選択するなら、ぜいたくは出来ないということも覚悟しなければならないのです。



労働をしたくない自分を肯定するために、「お金を稼がなくても良いのです」と言うスピリチュアルブロガーが多い。

現代日本で「お金を稼がなくても良いのですよ」「働かなくても良いのですよ」と諭すスピリチュアリストたちは、こうした理屈を理解してはいません。

多くの場合、自分が旦那さんの収入によって生活が守られている恵まれた状況にあり、労働をしたくない自分を肯定するために、スピリチュアルな本で目にした「お金を稼がなくても良いのです」という言葉を都合よく引用しているだけです。


彼女たちはなぜ、旦那さんにその言葉を言わないのでしょうか?なぜ旦那さんの労働をやめさせないのでしょうか?

旦那さんが働くのをやめてしまったら、自分も生活費がなくなってしまうからです。



自給自足に人を誘う目的で言うのであれば、「働かなくても良いのです」も間違ってはいない。

「お金を稼がなくても良いのです」「働かなくても良いのです」という言葉で人を諭すのであれば、自分自身が自給自足や物々交換で生活をまかなっている様子を、人々に見せる必要があります。そして、そのような自給自足ライフにスピリチュアリストたちを誘う目的で言うのであれば、その言葉の使い方は間違ってはいません。



人々は皆、努力をしてお金を得るか、または自給自足や物々交換をする必要がある。

繰り返しますが、「天使にお願いさえしていれば、お金を稼がなくても暮らしていけるようになる」といったことはありません。そのような神秘はありません。



人々は皆、努力をしてお金を得るか、または自給自足や物々交換をする必要があるのです。

または、お金を得なくても暮らせる、僧院のような場所に入る必要があります。

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